【渋沢栄一とは?】新しい1万円札の肖像画となるその人物像にせまる!

日本では、令和6年(2024年)に新しいお札が発行されることになりましたよね。

そしてその中の1万円札の肖像画に採用されたのが「渋沢栄一」です。

「へぇ~。てか誰?」と思った方も多いのではないでしょうか。(笑)

しかし2021年のNHK大河ドラマ「晴天を衝け」の主人公となるぐらいですから、スゴイ人にちがいないはず。

そこでこの記事では【渋沢栄一とはどんな人物なのか】、そして具体的に何をおこなったのかについてご紹介していきます!

 

「渋沢栄一」とは?

まずはかなりザックリと、一番の功績としてあげられるのが、日本に「資本主義」と「株式会社」という概念を持ち込んだ人です。

今も残る大企業の立ち上げや経営にたずさわり、生涯で作った会社は500を超えます!

ここまで聞くと確かに、「へえースゴイ人なんだね〜」といった感じですよね。

でもこの人じつは掘り下げれば掘り下げるほど超おもしろい人なんです!

「幼少期」

渋沢栄一は1840年に現在の埼玉県深谷市で生まれます。

農民ではありましたが、かなり裕福な家庭の長男だったようです。

藍の染料の製造販売や、原材料の仕入れもおこなうという他の農家とは一線を画す家庭で育ちました。

14歳の頃には一人で藍の葉を仕入れにいくなど、すでに肌感覚で商売を学んでいたそうです。

「青年期」

19歳の時には結婚したにもかかわらず、江戸に出て剣術修行のかたわら勤皇志士らと語り合い「尊皇攘夷思想」に目覚めます。

そう、渋沢栄一はあの坂本龍馬と同じ時代を生きた幕末志士だったんです!

勤皇志士とは「天皇に忠誠を尽くすものたち」のことです。

そしてその天皇が嫌がっている外国人を打ち払えという考えが「尊皇攘夷思想」ですね。

そして天皇の意思に反して、開国を進めている徳川幕府も倒してしまえという流れになるわけですね。

しかしその後、渋沢栄一は勤皇志士活動に行き詰まりはじめ、ヒョンなことから知り合いの紹介で「一橋家の一橋慶喜」に仕えることになります。

江戸幕府を倒そうとしていた青年が「一橋慶喜」に仕える。

そうです、一橋慶喜はのちの徳川慶喜であり、徳川最後の将軍になる人です。(笑)

え〜!ですよね。

1866年に慶喜が将軍になったため、栄一もそのまま幕臣となります。(笑)

そしてその翌年に、栄一に大きな影響を与えたとされる「パリ万博への視察」を命じられます。

パリ万博だけでなく、ヨーロッパ各国の先進的な産業をその目で見ることが出来ました。

これがのちに、日本の株式会社制度の設立につながるわけです。

ところが日本ではまさかの「大政奉還」で江戸幕府が終了。

1868年に帰国した渋沢栄一は、静岡に追いやられた徳川慶喜(一橋慶喜)のもとへ向かいます。

しかし慶喜に「もうこれからは、お前の進みたい道を行け!」と背中を押され、しばらくして大隈重信からの誘いもあり大蔵省へ。

大蔵省でもさまざまな改革にかかわり、1872年に現在の国立印刷局である紙幣寮のトップになります。(笑)

まさか150年後に自分が1万円紙幣になるとは想像できたのでしょうか?

いや想像くらいはしていたかもしれませんね!

先見の明が半端ないですから。

しかしその後1873年に、予算をめぐって大久保利通・大隈重信と意見が合わず、大蔵省を退職しています。

そして実業家として500以上の企業設立に関わっていくことになります。

「社会活動」

渋沢栄一が一万円札の顔になるほど評価が高い理由は、日本に資本主義を広めたからだけではありません。

むしろ人間・渋沢栄一として、社会貢献活動にも力を注いていたことが大きいようです。

現在の日本赤十字社や聖路加国際病院の設立や、一橋大学・東京経済大学・ニ松学舎大学の設立など、医療や教育の分野でも貢献しています。

関東大震災のあとには、復興のための寄付集めに走りまわったりもしています。

また当時はまだまだ女性に権利が与えられていませんでした。

そこで女性にも教育を受けてもらおうと、現在の日本女子大学の設立に関わっています。

さらに渋沢栄一は、1926年と1927年にノーベル平和賞の候補にまでなっています。

日米の友好関係を促進したことが評価されてのことだそうです。

しかしこの約20年後にアメリカに原爆を落とされているのは皮肉なことです。

「論語と算盤」

「渋沢栄一」=「論語と算盤」といってもいいくらいに重要な著書です。

道徳経済を両立しないと、一時的にお金や地位、名誉を得ても必ず滅びるといった主張が記されています。

「道徳に反しない方法」で経済的に豊かになること。

それを独り占めにせず社会に還元することで、自分も真の幸せを味わうことができると考えていたようです。

渋沢栄一の「おもしろエピソード」

当時の紙幣を作る部門のトップにまでなり、紙幣の肖像候補に何度も選ばれていた渋沢栄一ですが、なぜ結局は採用されずに令和の時代まできたのでしょうか。

じつは当時の偽造防止技術では、ヒゲが多めの男性でないとニセ札を作られる恐れがありました。(笑)

言われてみれば確かに古いお札の肖像画は、板垣退助など立派なヒゲを持つ男性が多いですよね。

それでヒゲのない渋沢栄一は採用を見送られていたんですね~。

その後、偽造防止技術が向上したことで、女性も採用できるようになり、ついに2024年からの一万円札に渋沢栄一が採用されることになったわけです。

「渋沢栄一」とは?  まとめ

開国を推進する「徳川幕府を倒せ!」という側にいた渋沢栄一が、気がつけば徳川の幕臣となりパリ万博へ派遣されるあたりがぶっ飛んでいますよね。(笑)

ただいろんな人の意見を聞いたり、みずから体験することで、柔軟に方向転換できるあたりが坂本龍馬に通ずるところがあるように感じます。

私たちは終わったことを振り返って見ているので、こっちが正解だったねと簡単に言えます。

でもその時代を生きている人たちにとっては、ひとつ決めた自分の考えを途中で曲げると言うことはかなり難しいことだったのではないでしょうか。

そして国全体で経済的豊かさを求めつつも、人として道徳に反した稼ぎ方では長続きしないと述べています。

さらに稼いだお金は独り占めせずに、まわりに分配することが自分の真の幸せにつながっていくという考えは現代の人々にも響くのではないでしょうか。

私も「寄付はどこがいい?」という体験記事を書いておりますので読んでいただけるとうれしいです。